インド人留学と母との出会い

 

帰国後、彼はインド国鉄で働きながら10年、日本に思いを馳せながら弟妹を支えて、25歳にして首都ニューデリーに単身出向き、夜間の大学に通いながら日本語を学びました。当時、インド文部省の国費留学生試験はファーストクラスのカーストしか受験できませんでしたが、国鉄職員であった彼は国鉄カーストの書き換えを得て、35歳にしてその難関を突破しました。

 

インドから海を渡って横浜にたどり着くや、長旅の疲労で骨と皮のようになった彼は救急病院に搬送されてしまいました。3ヵ月後、命を取り留めた彼は、東南アジア留学生用の寮を与えられましたが、寮での食事も思うように取れずに苦慮していました。

 

そのような彼を私の家に連れてきたのは母でした。すでに兄も私も家を出て働いていました。私が、狭く汚い我が家に帰ると、母、妹、そして私たち兄弟の部屋だった3畳間に浅黒い人が寝ていました。

 

その後、彼は慶応大学に進学しましたが、インド国鉄の紹介状を持って日本が開発中の新幹線研究のために日本の国鉄にたびたび足を運んでいました。

 

 

Microsoft Word - 一般社団法人岡本記念日印交流友の会入会申込書.
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