南インドでの学校設立

 

一年有余の貴重な旅を終えて、帰国翌日から、建築家であった私は新しい日本の最高裁判所の設計主任技術者として5年間携わりました。その間に並行して、茨城国体の際に両陛下を迎える宿として大甕クラブ改修設計、新規に開学した筑波大学の設計にも携わりました。

 

また、開港を控えた成田空港、始まったばかりの研究学園都市つくばを見据えて予科練の地・阿見町に土地を求めて脱都会を果たしました。

 

高齢になった母を、つくばの事務所に引き取って介護一年、母89歳の最後を看取りました。「香典をすべてインドの彼に送ってほしい」という母が遺した遺言にしたがって送金したのがボランティアの始まりでした。

 

インドの彼は、出身地である南インドの片田舎に土地を購入し、学校に行けない子ども達のための学校を設立しました。妹の名前を冠した、インド・秀子英語習得学校(Hideko English Medium School)を1992年に開校しました。

 

それ以降、この学校の維持経費が私と妹に委託され、わずかな寄付と二人の年金を投入してきました。インドの彼も老い衰えてきた機会に、私は意を決して70歳で一切の業務から手を引き、第二の人生をインドに踏み出すことにしました。

 

いま、私は多くの研究学園都市に来ているインド人研究者と親交を深めてきました。ここ数年は、半年をインドで生活し、半年は日本に帰るという生活で、インド人との交流をしており、インドへの援助に生きています。

 

 

 

Microsoft Word - 一般社団法人岡本記念日印交流友の会入会申込書.
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